東京地方裁判所 昭和40年(ワ)5299号 判決 1968年5月13日
昭和四〇年(ワ)第五二九九号事件原告
同年(ワ)第五四八九号事件被告
株式会社インターナショナルミュージックパブリッシャーズ
右代表者
北川孫次
昭和四〇年(ワ)第五四八九号事件被告
北川孫次
右両名代理人
坂本吉勝
同
井上準一郎
同
菊池武
昭和四〇年(ワ)第五二九九号事件被告
同年(ワ)第五四八九号事件原告
鈴木道明
同
日本音楽出版株式会社
右代表者
秋本茂
右両名代理人
酒巻弥三郎
同
植松宏嘉
主文
1 昭和四〇年(ワ)第五二九九号事件原告の請求を棄却する。
2 昭和四〇年(ワ)第五四八九号事件原告らの請求を棄却する。
3 第一項の事件の訴訟費用は、同事件の原告の負担とし、第二項の事件の訴訟費用は、同事件の原告らの負担とする。
事実<省略>
理由
第一甲事件(編注、昭和四〇年(ワ)第五二九九号事件をいう。)について
一一、請求の原因第一項の事実は、当事者間に争いがない。
二、三、四同第二項のうち原告が昭和三七年中にA楽曲の楽譜を出版したこと<中略>被告鈴木直明が訴外株式会社東京放送の編成局演出部に勤務し、昭和三八、九年頃B楽曲を作成し、これを自己の創作物として公表したことは、当事者間に争いがない。
五原告はB楽曲の歌の旋律のある小節が全部で四〇小節あり、そのうちの六割に当る部分がA楽曲の第一三小節以下リフレインの部分と同一または類似の旋律を使用しているからB楽曲はA楽曲の偽作物であると主張するので、以下詳細に検討を加える。
(一) まず、原告は音楽著作物の偽作を論ずるためには旋律を取り上げてその同一性を論ずれば足りると主張するけれども、音楽が旋律、和声、節奏、形式の四要素から成ることは原告といえども否定しないところであつて、音楽がかような四要素から成立し、これらが一体となつて一個の楽曲を形作つている以上、二つの楽曲の同一性を考えるに当つては、これらすべての要素を考慮に入れて判断を下すのが相当であると考える。もつとも、音楽といつてもさまざまなものがあり、そのうちには古は判例に現われた浪花節のように形式や和声など問題にならず、節奏さえも重要でなく、ただ旋律だけが主要な要素であるものもあるから、かような楽曲を比較する場合には旋律だけを考えれば足りることになる。原告の主張は、この種の音楽の比較についてのみ妥当するものということができる。かような見地からすれば、A楽曲とB楽曲とを比較するに当つては、音楽の四要素のうちどれが重要でありどれが重要でないかも当然問題とされなければならない。
(二) さて、原告が両楽曲のうち問題にしているのは、A楽曲では第一三節以下(厳密にいえば同小節の第二音以下)第四四小節までのリフレインの部分であり、B楽曲では第五小節以下第四四小節までの歌詞のついた部分であるから、以下前者の当該部分を甲曲といい、後者の当該部分を乙曲と名ずけ、比較の便宜上楽曲全体の小節とは別に、甲乙曲内だけで小節を数えることにする。そうすると、甲曲は三二小節、乙曲は四〇小節から成るわけである。
(三) そこで、まず甲乙両曲の構成をみると、甲曲は第一小節から第八小節までとこれをほぼ繰返した第九小節から第一六節までの第一部分、第一七小節から第二四小節までの第二部分、第二五小節から第三二小節までの第三部から成る三部形式であるのに対して、乙曲の構成は第一小節から第一六小節までの第一部分、第一七小節から第三二小節までの第二部分、第三三小節から第四〇小節までの第三部分から成る三部形式であつて、その間に共通性を見出すことができる。
つぎに、調は前者がニ短調、後者がハ短調であつて、ともに短調である点において共通している。
さらに拍子は両曲とも二分の二拍子である点で同一であり、甲曲の節奏は八分音符を基礎としているのに対して、乙曲の節奏は四分音符を基礎としているけれども、乙曲では甲曲の二倍の節奏を有するのに対して小節の数も二倍であるから、両者は外観上の差異にもかかわらず等しいものとみて差支えない。このことは、I鑑定人の明らかに指摘しているところである。
また、両曲における音の強弱をみると、いずれも弱弱弱強の節奏を具えていること、すなわち両曲とも弱起の曲であることは、M鑑定人の述べるとおりであつても、この点においても両曲は共通点を有することが明らかである。
(四) つぎに、甲乙両曲がいずれもいわゆるポピュラー歌謡曲であることは、疑をいれない。この種の歌謡曲では旋律が重要であることはいうまでもない。
そこで、つぎに旋律について、両曲を分析対照してみよう。
まず甲曲の第一、第二小節と乙曲の第一小節から第四小節までは、ともに第一動機といえる部分であるからこれを対比すると、第一動機を形作る八音のうち最初の五音は同じである。最後の音は一オクターヴ違つているものの同音である。第一動機は全体として類似しているということができる。この結論に対しては、I、M両鑑定人のみならず、T鑑定人もまた同意見である。ひとりR鑑定人のみは両者が類似していないとの意見を述べているけれども、この意見は他の諸鑑定人の意見に照して採用し難い。
つぎに、甲曲の第三、第四小節と乙曲の第五小節から第八小節までを見よう。この部分は両曲を通じいずれも第二動機といえる部分であるが、両者の旋律は全く同じである。甲乙両曲の類似性を全く否定するR鑑定人も、この部分の同一性は否定していない。
これに続く部分すなわち甲曲の第五、第六小節と乙曲の第九小節から第一二小節までとを比べると、第一動機、第二動機とは異なりかなりの差異が見られるが、前半の部分の旋律は共通しており、両者の旋律にはある程度の類似性を見出すことができる。この点もR鑑定人を除く前記三鑑定人の指摘しているところである。
つぎに甲曲の第七、第八小節と乙曲の第一三小節から第一六小節とを対比すると、両者の旋律には共通する点が見受けられず、類似していないといつてよい。
以上のとおり、甲乙両曲の第一部分に分析して比較検討してみると、この部分においては両曲はかなり類似しているとみて間違いないであろう。
つぎに、両曲の第二部分すなわち甲曲の第一七小節から第二四小節までと乙曲の第一七小節から第三二小節までとを比べてみると、甲曲の第一七、第一八小節と乙曲の第一七小節から第二〇小節との間に類似した旋律を見出すことができるけれども、その他の部分には共通するところがないということができる。
最後に両曲の第三部分をみると、甲曲の第二五、第二六小節と乙曲の第三三小節から第三六小節までとはいずれも第一部分の第一動機の再現であるから、それについてはさきに述べたところがそのままあてはまる。また、甲曲の第二七、第二八小節と乙曲の第三七小節から第四〇小節までは、前者が、第一部分の第二動機の再現であるのに対して、後者は第一部分の第一動機と最初の五音を同じくしながら後の三音を変化させて終止に導いている点でやや相違している。そして、甲曲の第二九小節から第三二小節までに相当する部分は、乙曲においては全然存在しない。したがつて、第三部分においては、乙曲は甲曲の前半に相当する部分しかないわけであるが、この前半に当る部分の旋律は全体としてやや類似しているということでできる。
(五) 以上両曲を主としてその旋律に重点をおいて比較してみたわけであるが、甲乙両曲を全体として対比した場合、<証拠>の検証の結果によれば、すなわちAB両楽曲を演奏して吹き込んだレコードをかけてその演奏をきいた結果によると、両曲はある程度似かよつたような感じを受ける。(検乙第二号のレコードはかなり変奏を加えて演奏しているから、比較の対象には達しない。)
これは、主として甲乙両曲の大部分を占める第一部分および第三部分にかなり類似した旋律が使われている結果によるものと考ええられるのであつて、かような印象とさきに述べた両曲の比較対照の結果とを考えあわせると、あるいは乙曲は甲曲からその旋律の一部を取り入れて作り変えたものではなかろうかという疑問が生じてくるのである。鑑定人Iが甲乙両曲よりさきに指摘した類似ないし同一の旋律断片をとり上げ、上記の旋律断片からすれば、乙曲のそれらが甲曲よりの盗用であることは、常識的には十分に断定されうるところであると述べ、鑑定人Tが両曲の類似の旋律を指摘した上甲曲は乙曲の先行楽曲であるとする解釈は部分的には十分肯定できる旨説明しているのは、程度の差こそあれ、この疑問が決して根拠のないものではないことを裏書するものといえるであろう。
(六) 被告らは甲曲の最初の二小節すなわち第一動機に当る部分の旋律はありふれたもので独創性もなにもないから、この部分に相当する乙曲の旋律が似たようなもので類似しているとしても、これを理由に偽作であるとすることはできないと主張する。しかしながら、甲曲の当該部分の旋律がありふれたもので全く独創性がないときめつけるに足りる資料は存在しない。のみならず、たとえ甲曲の第一動機がありふれたものであるとしても、第一動機が平凡でありながら楽曲全体としては独創的である楽曲は幾らでもあるから、楽曲の独創性は単に第一動機のみによつて決定できず、楽曲全体を通じてこれを看取しなければならないと考える。したがつて、第一動機の独創性を否定することによつて両楽曲の同一性を否定しひいては偽作を否定しようとする被告らの主張には、にわかに賛成することができない。
(七) 被告らは乙曲がハ短調で作曲されていることはその主題にとつて必然的なものであると主張する。しかし、ある楽曲を移調しただけでは楽曲の同一性が失われないことはいうまでもないことであるから、二つの楽曲の同一性を比較検討するためには、調の相違は考慮に入れる必要がないものと考えられる。また、被告は乙曲が非常にヒットしたのに甲曲が流行しなかつたことは、大衆が両楽曲を完全に別の曲として認識したことを物語るものであると強調する。しかしながら、ある楽曲が流行するかどうかは、それがある時期におけるある国民の好みに適合したかどうかによつて決まるのであつて、両楽曲の同一性とはかかわりのないことであることは、あえて鑑定人の意見を引用するまでもなく明らかであるから、被告らの主張はとるに足りない。さらに、被告らは流行歌の旋律は数の上で制限があり、類似の旋律をもつ楽曲が生まれる可能性が極めて大きいと主張する。しかし、流行歌の世界の実態が被告らの主張するようなものであるとしても、その間に創作と偽作との区別があることは、おそらく被告らといえども否定しないものと思われる。被告らの主張は、単に流行歌には似かよつたものが多いことを強調するに過ぎないとしか考えられない。
(八) 以上に説明してきたとおり、甲乙両曲の間には旋律のみならず、節奏形式においてもかなり類似した点が見られるのであるが、このことから直ちに両曲間に同一性があると断定するわけにはいかない。けだし、両曲にはその旋律その他の点において差異があることも、またさきにみたとおりである。とりわけ、両曲はその第二部分の旋律すなわち甲曲の第一七小節から第二四小節までと乙曲の第一七小節から第三二小節との旋律においてさきに指摘したとおり明らかな差異を示している。そして、I鑑定人が説明しているように、乙曲の第二部分における第二五小節より第二八小節までの旋律は平易な旋律であるとはいえ、甲曲に全く見られない独特の旋律であつて、それに先立つ第二一小節から第二四小節までの旋律に受けてこれを盛り上がらせて高潮させ、同曲の中で最も盛り上つた部分を形成し、甲曲に見られない日本歌謡調を表現している点で明らかに独創性を認めることができる。
原告は乙曲の第二部分は第一部分を受けてそれを第二次的に展開したものにすぎず、第一部分を前提としなければ作曲することができないものであると主張する。しかし、原告の主張は抽象的に過ぎるし、その論証もまた極めて不十分である。三部形式における第二部分が第一部分を受けていることはいうまでもないが、その受け方にはさまざまあつて、第一部分に即してあまり変化をつけない仕方もあるし、これとは反対に第一部分とは全く趣を変えて対照の妙を発揮する仕方もある。したがつて、この部分について独創性を発揮する余地は十分にあり得ると考えられるのであつて、その独創性は楽曲全体の独創性に影響を及ぼすものとみるのが相当である。第一部分について同一性が認められれば第二部分の独創性は問題にならないとする原告の議論には、直ちに賛意を表することができない。
(九) また、乙曲は随所に減五度の音程を用いた旋律を使用して日本歌謡調の特色を示しているが、かようなことは甲曲には見受けられないことは、鑑定人Tの説明しているとおりである。
さらにI鑑定人の指摘しているように、乙曲の第二部分の旋律はその後に第三部分として必然的推移のように最初の四小節すなわち第一小節から第四小節までの旋律を自然に導入しながらそれを反覆し、第一部分を全部くりかえすことなく巧妙に終結させていること、乙曲は各四小節づつの旋律断片をつなぎあわせたもので、各四小節の後半の二小節が同一音を二つの全音符で延ばしつつ機能的に主和者と属和音の対照を示していることなど、音楽形式の面からも十分に創意を示していることが認められる。
(十) 以上に述べた諸点を考慮に入れるときは、甲乙両曲にはその旋律ないし節奏においてかなり類似した点が見受けられるにもかかわらず、乙曲に独創性の認められる部分のあることは否定できないから、I、T両鑑定人が結論として述べているのと同様に、乙曲が甲曲に部分的な修正増減を施した程度のものであるとは断定できないし、甲曲と乙曲との間に同一性があるとは断定し難いのである。
これに対して、鑑定人Mおよび同人の作成した前記甲第一〇号証は、甲乙両曲の第一部分における最初の旋律ないし節奏が類似していることを極めて重要視し、その後に現われる旋律の同一性を指摘した上、第二部分における両曲の旋律の相違を肯定しながら、それらがいずれも波形旋律であること、反行形をとつていることに類似点を見出し、その結果乙曲は甲曲を修飾して作られたもので、強度に類似しているから意識的に行われたものと判定しているけれども、この意見は前記認定と対比するときは、直ちに採用するわけにはいかない。
(十一) 以上のとおり、原告が問題として取り上げた乙曲と甲曲との同一性を断定し難い以上、乙曲を包含するB楽曲が甲曲を包含するA楽曲の偽作であると断定し難いことは、いうまでもないところである。
六してみれば、偽作を前提とする原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく既にこの点において失当であるといわざるを得ない。
第二乙事件(編注、昭和四〇年(ワ)第五四八九号事件をいう。)について
一<略>
二原告鈴木道明がB楽曲を作成したことは、当事者間に争いがない。B楽曲の作成がA楽曲の偽作とは断定し難いことは、さきに甲事件について認定したとおりであるから、B楽曲はA楽曲とは独立した別個の著作物であるといわなければならず、したがつてこれを作曲した原告鈴木道明はその著作者であるといわなければならない。
原告鈴木道明と原告会社との間にB楽曲の著作権譲渡契約が締結されたことは当事者間に争いがないから、原告会社は同楽曲の著作権者であるということができる。
三<証拠>によれば、昭和四〇年四月四日付および同月一八日付の新聞紙「内外スポーツ」に原告らの主張するような記事(編注、あたかもB楽曲がA楽曲の偽作であるかのような印象を一般に与える記事)が掲載された事実を認めることができる。しかしながら、これらの記事が被告Kの情報提供に基づいて作成されたと認めるに足りる証拠はない。また<証拠>によれば、昭和四〇年五月二二日付の新聞紙「内外スポーツ」に原告ら主張のような記事が掲載された事実を認めることができるが、証人Yの証言によれば、この記事は、内外スポーツ新聞社の記者であるYが被告会社の代表者である被告Kらから取材した資料にもとづいてこれを作成したものであり、被告会社または被告Kから積極的に情報を提供してこれを掲載させたものではないことが明らかである。もつとも同証人の証言によれば、該記事中に掲載されている被告会社代理人Iより原告Sにあてた通告書は、同年五月一九日夜IよりYに電話をしてこの通告をする旨を知らせ、その際Yの求めに応じてその内容をも告知したため掲載されたことが認められる。しかしながら、同証人の証言によれば、Iは、すでに同月一七、八日頃、Yが被告Kと会つて取材をした際それに立ち会い、Yに対してB楽曲の頒布を禁止する措置をとる旨告げたが、その後同月一九日になつて原告Sに対してそれと異なる措置、すなわち同人と協議したい旨の通告をする措置をとることになつたので、さきに述べたことを訂正する趣旨で、Yに対し電話で通告書のことを話したことを認めることができる。してみれば、IがYに対し電話による連絡をした事実をとらえて、被告Kが積極的に情報を提供して前記記事を掲載させたものということはできない。
それ故、「内外スポーツ」紙の記事の掲載について、被告Kに不法行為があつたということはできない。
四被告会社が原告らを被告として原告ら主張の訴を提起したこと、その事実が原告らの主張するように新聞に報道されたことは、当事者間に争いがない。
原告らは被告会社が、この訴において請求の原因としてB楽曲がA楽曲の偽作物であると虚偽の事実を主張しているから、この訴の提起は原告らに対する不法行為であると主張する。なるほど、さきに甲事件について認定したようにB楽曲がA楽曲の偽作物であるとした点は誤りであり、したがつて虚偽の事実を主張したということにはなるであろう。
しかしながら、甲事件における当裁判所の判断から明らかなように、B楽曲が偽作であるかどうかの認定には非常にむつかしい問題が含まれており、音楽専門家の間でも意見が分れているのであるから、被告会社が訴を提起した当時、その勝敗の帰すうは全く不明であつたといつても過言ではないであろう。してみれば、被告会社がその主張した事実が虚偽であることについて故意があつたとはとうていいうことができないし、過失さえあつたとは考えられない。ましてや、被告K本人尋問の結果によれば、被告会社が訴を提起するについては事前に音楽専門家の意見をきいていることがうかがえるにおいては、なおさらのことである。そうすると、被告会社ないし被告Kは訴の提起について不法行為責任を問われるいわれはないものといわなければならない。
五してみれば、原告らが主張する被告らの不法行為は、いずれもこれを肯定することができないから、これを前提とする原告らの本訴請求は、他の事実を検討するまでもなく失当である。
第三結論
以上説明したとおり、甲乙両事件における各原告らの請求はいずれも失当であるから棄却することとし、訴訟費用の負担について、民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。(古関敏正 牧野利秋 水田耕一)